[コラム]「一夜湯治事件」箱根宿が温泉場とバトルに!?
江戸の「箱根七湯」
箱根最古の温泉は湯本温泉で、天平10年(738年)に開湯されたとされています。天平十年といえば奈良時代です。湯本温泉は箱根越えのルート・坂路(鎌倉古道)に位置していたこともあって、宿場として整えられていきます。
江戸前期の小田原藩の資料によれば、当時の時点で湯本、塔之澤(塔ノ沢)、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯の7つの温泉場「箱根七湯」が存在していていたことがわかります。
なお、現代では大平台、底倉、二ノ平、小涌谷、強羅、宮城野、仙石原、姥子、湯の花沢、そして蛸川温泉が加わって「箱根十七湯」となってます。
一夜湯治事件
江戸の庶民の旅の時代
湯治場として栄えた江戸時代の箱根七湯。江戸時代後半になってくると、庶民の旅が活発となり、湯治の客だけではなく旅人も温泉場を利用するようになってきます。
旅人は街道筋の宿場に宿泊することが、幕府により定められていましたが、温泉場は道筋から離れた場所にあります。そんなわけで、そのまま泊まるのが便利ということで、温泉場に宿泊する旅人が出始めます。
宿場の死活問題
これに怒ったのが小田原宿・箱根宿の宿場。本来、宿場に泊まるべき旅人を温泉宿に取られてしまう、つまり宿泊者が減少することは死活問題でもあります。
文化2年(1805年)7月、両宿場は、湯本村の温泉場など、宿場以外の場所に旅人が泊まることを取り締まって欲しいと道中奉行に訴えます。この総論が「一夜湯治事件」です。
湯本村側の言い分としては、道筋から離れた場所にある温泉場であるということ、そして20年前から湯運上金を収めており、入湯客の宿泊がすでに認められているということでした。
道中奉行の裁定は
結局、道中奉行が「一夜湯治」を認め、温泉側がこの争論に勝利。湯本温泉への宿泊が公的にも認められることとなります。なお、本来の湯治は三廻り(21日間)が必要とされているわけですが…。
幕府が宿場以外への宿泊を公に認めたという事実は、その交通政策の基調を自ら崩しさざるを得なくなったということを意味します。こうして江戸時代の終わりに向けて、少しづつ時代が動き始めて行ったのでしょうか。
リソース
- 箱根町立郷土資料館さま配布の資料を参考にしています
箱根町立郷土資料館
https://www.town.hakone.kanagawa.jp/index.cfm/6,420,14,99,html